2002年5月16日 木曜日



落語界の超重鎮 柳家小さん師匠が亡くなりました。

松鶴が姿勢を正し、全文敬語で接する、数少ない先輩でした。





本名:小林盛夫(こばやし・もりお)

2002年5月16日午前5時、心不全のため東京・目白の自宅で亡くなった。

享年87歳 長野県出身

1915年(大正4年)1月2日、長野市生まれ、東京・浅草育ち。
東京市立商業夜間部中退。

1933年(昭和8年)四代目小さんに入門、前座名は栗之助。
小きん、小三治をから1950年、五代目小さんを襲名。
この間2度召集され、2・26事件では反乱軍に組み込まれる。

1972年から24年間、落語協会会長を務め、最高顧問となる。
1980年紫綬褒章、1985年勲四等旭日小綬章を受章、
1995年(平成7年)落語界初の人間国宝に指定される。

剣道七段。長男は柳家三語楼、長女の長男はバレエの小林十市、
二男は柳家花緑。

落語協会会長として近代化を進めた。
「初めは身銭切って協会事務所を借り、大学出の専任事務員を置いた」そうです。
三遊亭円生師匠一門の脱退騒動や立川談志師匠の独立などを引き起こした
「大量真打ち」「真打ち昇進試験」を実行しはりました。

晩年は口ごもったり、噺を二ネタ続けてしまったりしたこともあったそうです。

最後の高座は2月2日、鎌倉芸術館の「親子3代の会」のトリで演じた
「強情灸」


葬儀は落語協会葬
通夜 18日午後6時から、東京都渋谷区鴬谷町の乗泉寺で。
葬儀・告別式 19日正午から同じ乗泉寺で
喪主 長女小林美喜子(こばやし・みきこ)さん
葬儀委員長 三遊亭円歌


以下、【日刊スポーツ】2000.2.27付紙面より・・・
http://www.nikkansports.com/news/entert/entert-etc3/2000/sun000227.html

1996年の1月、脳梗塞で倒れた。
マスコミには「軽い脳梗塞」と伝えられたが、
孫の柳家花緑によると「生死をさまよった。
今も左半身が少ししびれる時があるようです」


「師匠の四代目小さんも、会則をこしらえたりする
進んだ考えの持ち主だったから、近代化は師匠譲りだな」


「寄席の数と噺家の数が合わなくなってきた。
今までの真打ちというものの定義を変えて、
みんなスタートラインに立たせてやろう、というのが、
円生さんに分かってもらえなかった」


「談志は、自分の弟子が落ちた時
『おれは弟子にそういう教育はしていない。こういう所にはいられない』
って言うんで、旅に出したってとこかな。
あいつはお山の大将でいる方がいいんじゃねえかな」


「円楽は戻る時機を逸しちゃったんだよ。
(円生の)カミサンが連絡してきて
兄弟弟子の何人かは戻ったんだよ。
来たい者は拒まないって気持ちは今もあるよ」


先代桂三木助とは義兄弟の契りを結んだらしい。

「お互いに相手の芸にほれ込み合ってね。
ライバルとして研鑽していこうというわけだ。
三木助の姓があたしと同じ小林で
『男の子が生まれたら、お前の名の盛夫にする』
と言って、本当に付けちゃった。
それが今の三木助(先だって亡くなった)

その三木助があたしンとこにいた時、
あたしの印鑑証明を取りに彼をやったら
『本人も代理人も小林盛夫じゃダメだ』って、
区役所で大モメしたって笑い話があるン」


「『心卑しき者、噺家になるべからず』というのは
四代目師匠の教えなんだ。」



「噺の上には了見が出るもんなんだ」

「気持ちが清廉潔白でなくっちゃ、
お客さんを楽しませることなんかできないんだよ」




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